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こころの就労・生活相談室~元当事者PSWのブログ~

精神保健福祉士(PSW)を取得、統合失調症を抱えながら転職を繰り返し当事者として障害者雇用で働いた経験のある著者のつれづれ日記です。

第一章 ~蘇生と出会い~ 4

「座談会形式で自分の病気を語り合うんです」

紺野先生はそう話をしていた。形式張らずに心を病む人同士がありのままを語れる環境をつくっていく。

これはPSW(精神科ソーシャルワーカー)にとって必要不可欠の実践要素だ。
作業所を見学した後は気分が晴れたが、医療施設となると医者を意識してしまうのか、身構えてガチガチになってしまう雄志がいる。

そんななか、実習の見学先として雄志は富士山病院系列の地域生活支援センターピアニッシモ」(仮称)に興味を持った。今年できたばかりの新しい施設である。木製の優しいつくりのドアを開けて入っていった。

「こんにちは」
と中へ入るとまるで、ログハウス仕立てのような居心地のいい空間があらわれたではないか。
 

奥へ入るとオープンキッチンがあり、椅子や円テーブルもバランスよく並べられて見た目も心地がいい。

『談話室』『休憩室』などを紹介されたが、ポイントは『休憩室』である。『休憩室』は『(怠けではなく)疲れやすい』特徴をもつ心の病を持つ人に一番配慮してくれる部屋である。これがあると、倒れることを心配せずに、安心して頑張れるのだ。決して怠けているわけではないことを家族の方は理解してほしい。真面目で一生懸命で、不器用ながら考え悩んで頑張ってきた人なのだ。
 

 雄志は、以前から心の病を持つ人が増えているので社会全体として真摯に受け止め対策を考えないといけないと各党に意見していた。
 

 しかし根本的には、もっと儲けよう、人を働かせようという、人権を無視した暴君的な存在が会社等で幅を利かせていることに原因がある。阿修羅のように働くのはよいが人に押し付けるなかれ、“私は人より優れている”とか“成果を出している”など、そんな修羅の生命の現れが今日の日本社会を作り出したのである。

 勝者のおごり高ぶる陰で一体どれほど無数の人が、家族が悩み苦しんでいることか!人より優れ、勝つのはよいが、傲慢になるな!人を見下すな!トップに立つ人間の振る舞いで未来は決まってゆく。今のままでは人権尊重を謳いながらも人間軽視の世界となってしまいかねない。クイズと料理番組などでテレビの世界はにぎやかであるが、その陰には、いまも悩みの尽きない人はたくさんいる。ほんとうは表に現れない、悩んでいるその人達を応援することに力を注ぐべきである。生命尊厳の世紀へと流れをどんどんと語りことで変えていくのだ。心を変革せよ。気付いた善人は連帯して社会変革へ向け行動せよ。
 

 負けた人の痛みと屈辱をそのままほったらかしにしてはならない。再び社会で負けないように応援していくのだ。何事も『聴く』ことが大事な時代である。心を病んだ人はどうしょうもない敗北の屈辱感を味わっている。悔しさで煩悶している。社会ではい上がれないもどかしさがある。そんな人を突き放してはならない。人生のしんどさをしっかりと聴くのが精神保健福祉の分野であり仕事である。いや、それはどの分野にも必要なことだ。人には様々な生活歴がありその背景を踏まえるべきだ。
 

 さて、『休憩室』これがあるだけで、心はほっと休まるのであった。
雄志は、これから出会う人に心の中で敬意を払いながら、どんな人がいるのだろうとわくわくしながらピアニッシモへ入っていったのだった。煙草を吸っている人がいた。どこか疲れ切った感じのする人たちである。雄志は同席して雰囲気になじんでいこうと、静かに椅子に座り一服し始めた。しばらく沈黙の間が続いた。

「はよ就職したいですわぁ」
ポロシャツをきた四十代の男性が同席していたスタッフにぽつりと話し始めた。

「お気持ちはよくわかります。」
スタッフは少しうなずくようにして話しを受け止めた。

「どこかいいとこないかな。」
そんなとき、「ありますよ」とか「いや、あなたには無理ですよ」
などと言えるだろうか?

「そうですね、プログラムの中で一緒に考えていきましょうか?」
スタッフは利用者の話しを受け止め傾聴していくのだ。
見た目ですぐに判断を下してはいけない。

スタッフの「こう支援したい」という一方的な想いを伝えるだけでは適切な支援ではない。情報を示し、判断するのはあくまで本人なのである。その自発を促すことにポイントがある。

 男性は「そやな」とゆっくりと手を灰皿にもっていき、とんとんとたばこの灰を落とした。雄志は隣にいて利用者への接し方をスタッフから学んでいった。

 

さて、山岡診療所の診察の日がきた。山岡先生の診察には、予約待ちで、待ち人が多い。そんな中、隣にいる婦人より声をかけられた。

「今日7月3日は山岡診察所の開院記念日なんです。蘭の花があるでしょ、山岡先生の師匠・山本先生からプレゼントされたものなんですよ。」

「あ、そうでしたか!」
声をかけられ雄志は驚いた。患者さんのなかには

「病気になってからようやく人の痛みに気づけるようになれたんです」
と感謝している方もいる。しかし、多くの患者さんは、いつも何か不満を抱えている。先生方はその不満を聞き、適切なアドバイスをしようとしているのだ。ただ、見聞きする医院の中には、患者の訴えを聞き流したり、「働くのはまだ早い」と患者自身が就労に挑戦をすることを回避したりして、“固定客”のように、囲い込みしながら診察をしている医師もいると聞く。

「薬が多くても量を減らしてくれない。」
“医師と薬屋は仲良くつるんでいるのだ”と主張する人もいた。
ともあれ、雄志は、「日中眠けがひどい」ことや「手が震える」ことなどを訴えた。誰かが僕のことを想って泣いていると心で感じた(妄想着想)ときもあり、突然、散髪屋で泣きだすこともあった。自分が“世界を救おうとして”頑張ってることを“陰”ではちゃんと知ってくれている人もいる、と感動しながら妄想することもあった。自意識過剰と言われたり、気にしすぎと言われることもあるが、病気と関係しているのであろう。ただ、自分が何かを“感じる”ように、周りは感じていないのが実際であった。

 山岡先生の診察を終えると、近くの中華料理屋でご飯を食べたり、新しいラーメン屋を探しに出かけるのがいつもの雄志の姿であった。

 

 病院の診察が終わると、就職のことを考え、近くにある福祉人材センターに行き、求人動向を調べていたりしていた。精神の分野での求人は少なく、看護師や介護福祉士の求人が圧倒的に多いのが現実だ。精神保健福祉士を求めている施設は少なかった上、あってもすぐに募集が締め切られることがほとんどであった。また給料が非常に安く、とても生活していけるだけの金額ではなかった。

第一章 ~蘇生と出会い~ 3

 雄志は積極的に友人をつくろうと思い切って雑談の輪の中に飛び込んだ。冗談がよく飛び交い、おもしろい話しが多かった。よく笑い、心に満たされるものがあった。雄志は、友人をつくりたい、そう強く願っていた。

 

 それはあまりにも孤独な環境に身を置きすぎた反動からくるものであったのかもしれない。孤独地獄から抜け出そうと、もがきにもがいた結果、病にかかった。しかし、これは雄志のその後の人生にとって決定的な意味を持つ病気となるのである。

【病になりて道心は起こり候】

病気になることで、はじめて道を志す。雄志は、はじめこそわからなかったが、その渦中にいることをかろうじて実感することができた。

ともあれ、積極的に自分から声をかけ話の輪の中に飛び込んでいくことだと、授業の休憩時間には、喫煙場所で過ごすことを選んだ。

「雄志は、体調どうなん?」
同期の友人から温かく声をかけられ、

「大丈夫、いい感じやで。」
とやや強がって返事をしてしまうこともあった。

「ほんとうは薬を飲んで、身体がだるいんだ。」
と親友のSに語ることもあった。

「そうか、目がしんどそうやもんな~。ともかくよく寝ることやで」
Sは雄志と昼食にラーメンを食べながらそうアドバイスした。

「でもな、回復を切に求める俺にとっては、多少のしんどさは全然苦にはならへんねん。むしろ当然と思ってるんや。」

「雄志は前向きやな・・・。そこは俺も見習わないとな!」
Sは雄志の隣に座る学友だった。Sは

「俺も、学生時代はハイになることがあって、裸で走りたい気分になったことがあったで」
「そうなんや。」
と雄志は、自分と似たような感覚に陥ったSの話しを聞き、なぜか安心してしまうのだった。

「僕の場合は、たまたま薬を飲んでなかったりするだけやから、病気と健康はそもそも紙一重の差なのかもしれないね。」
Sはそう言うとタバコを吸い始めた。

「そうなんかな~。」
雄志もすすめられて、タバコを口に加えた。二人で少しの間、沈黙が続いた。

「あ、もう時間やな。」
雄志と親友Sは腕時計を見て、タバコの火を消すと、あわてて校舎の中へ入り、いつものように席につくのだった。

 講義がはじまるとにぎやかな空間がまた静かになっていく。講義、雑談、見学、これの繰り返しが、雄志にとってどれほど精神の滋養となったか、はかりしれない。友人と話すなかで雄志は自分がいかに遊んでいないかということにも気付かされた。そう、頭でっかちで遊ぶ経験、社会経験が足りないのも雄志の一つの特徴だ。
 

 講義の中で「社会経験が少ない」などといわれると、ズバリと指摘された感じがして恥ずかしくなった。雄志は発病から一年半、まだまだ後遺症が残っていた。緊張感がとれずガチガチに固くなった状態で人と接していたのである。
よく友人の剛から「力を抜いて」とか「リキむな」と言われる。
 

 しかし、そう言われても逆に力がはいってしまうなど、未だに力の抜き加減がわからず、不必要に固くなりエネルギーを消耗することがある。雄志自身も「しょうがないなぁ」と半ばあきらめていたりするが、自分のことはなかなかわからないものだ。

 専門学校からの帰り道に老舗の饅頭屋を見つけた。作りたての饅頭は店頭にならべられており、看板が目に入る場所までくると、できたての匂いがほのかにただよってくる。

 普段は饅頭を買わない雄志もこの日は「ま、いいか」と一人でつぶやき、家族の分もあわせて四つほど、大福を購入した。店のおばさんは笑顔で「気ぃつけて帰りや」と手を振って見送ってくれた。

第一章 ~蘇生と出会い~ 2

「俺、病気があって薬を飲んでいるんだ。」
ある日、雄志は、地域の親友である剛(つよし・仮名)に悩みを相談していた。

「病気はだれでも一つや二つぐらいあるで。要はそれで自分が負けるのか勝つのかが問題や。よく言うやろ、『他人と自分を比較して生きるより、昨日の自分と今日の自分を比べて前に進んでいることが大事』やって」

雄志は、発病してからというもの、常に“健常者”と“自分”を意識し、比較して生きてきた。

つまり、一般の“健常者”と比べて病気になっていることで、どれだけ違って見えてしまうのか、ということばかり気になっていたのである。まともであろうとし続けてはみた。病気を隠そうと、そのことばかりを考えてきた。しかし、それでよくなる気配はみえなかった。

自分の失敗をさらけだすのがどれほど勇気のいることか。

『馬鹿になれ、とことん馬鹿になれ、恥をかけ、とことん恥をかけ』とはアントニオ猪木の言葉である。

この言葉を故郷の親友、剛のアパートで見た雄志は全身に衝撃が走った!

「なぜそんなことができるのか!」
恥ずかしがらずに勇気をだして自分自身の思いをさらけだす、それは大変恥ずかしいことのようだが、そうすることで、精神的に楽になり、解決へとむかう近道であることに気づいた。

“馬鹿になれ、恥をかけ”とは、雄志にとっては秘密をオープンにせざるを得ない、激しい言葉のシャワーとなるのだった。

「雄志は関東の大学にいたせいかもしれんが、自分をよくみせようとしてる。見栄や気取りは捨てなあかん!」
と親友である剛は教えてくれた。いとも簡単に雄志は心の中を見抜かれ、軽いショック状態に陥った。

言葉荒く欠点を指摘されるのは辛かったが、温まるものがあり、剛のいうことを聞いていこうと思えるのであった。
「まあ、病気も一つぐらいあった方が、身体との付き合い方もわかるし健康でおれるで。」
剛は雄志の肩をポンと叩きながらそう言った。

 それから雄志は、学校でも恥じることなく自らが薬を飲んでいることを話していくようになった。入院を体験し、薬を飲んでいる・・・それは実は強みであるとも思えてきた。しかし、専門学校の友人たちは、病気である事実よりも、恋愛話しやほんとに就職できるのかということに最大の関心があった。自分が思うほど、周りの友人は雄志の病気のことは気にしていないようだった。

「重くとらえ考え込むより前を向いていこうや」と、そんな声が聞こえるようだ。

第一章 ~蘇生と出会い~ 2

“紺野先生の作業所ってどんな所なんだろう”と雄志は興味を持った。学校からの帰りに寄らせてもらおうと、深山駅(仮称)まで向かった。

駅から歩いて数分の距離だった。高架をくぐって歩いていたが看板が掲げてあるわけでもなく、始めは探すのに戸惑ったが、やがてわかった。

年季を感じる古い一軒の店らしきものがそこにはあった。雄志はドアを開き、中へ入っていった。

「こんにちは、お邪魔します」
目の前のガラスケースに昆布が商品として置かれていた。

“作業所でなぜ昆布を売っているんだろう?”
雄志がその理由を知るまでには数年を要することとなる。中へ入ると、犬が出迎えてくれた。誰もいないのかな・・少し不安になりながらも

「こんにちは」
と誰にいうとなく呼びかけてみた。入口付近にはだれもいないようだ。反応がないので少し奥へ入りながらもう一度挨拶した。

 

年配の老婦人が破れたソファーに横になったままほとんど動かない姿をみた。少しPSWの勉強した雄志は理解し、自分に言い聞かせた。

「そのままを受け入れるんだ」
と言い聞かせ、再び

「こんにちは」
と挨拶した。別の部屋を覗くと、ジャラジャラと麻雀の音が聞こえてくる。手馴れた様子で、パイを打つ音がせわしなく聞こえてくる。しかも手の動きがかなり速い。

「兄ちゃんやるか」
そのうちの一人の男性が声をかけてくれた。雄志にとっては学んだことを初めて生かす“対人援助”の場である。男性が声をかけてくれたので入りやすかった。しかし、あっけなく雄志は負けてしまった。そう甘くなかった。

「兄ちゃん、もっと勉強してきぃや」
そう言われ、少し落ち込んだまま隣の部屋へと入った。

「兄ちゃんご飯食べていくか」
五十代ぐらいのおっちゃんから声をかけられた。

「あ、はい・・・」
温かな声をかけてくれたことが嬉しかった。

「300円やで」
あまりの安さに嬉しく思ったが、しかし残りは千円しかない。コーヒーと晩御飯でなくなるな。帰りの電車賃は700円か・・・。そんなことを考えながらご飯をよそおった。

 

自分でできることは自分でやる。それが作業所の方針でもあった。麻雀組を除いて仲の良い人同士2、3人で食べている人もいるが、他は別々で食べているようだ。メンバーさんたちは自然体で思い思いのまま椅子に座っていた。雄志は何かしゃべらないといけない、と思い、

「隣に座っていいですか?」
と隣にいる60代の男性に声をかけた。

「あぁ、どうぞ」
人のよさそうな男性は快く返事をしてくれた。

「兄ちゃんどっからきたんや?学生か?」
「はい、市内のほうから来ました。専門学校に通っています。僕も病気で薬を飲んでいるんです。」
「そうは見えへんけどなぁ、でもわしらは薬だらけやで」
食事をたべると男性は包化された薬を飲み始めた。
「どれが何に効いてるのかさっぱりわからへんけどな、はは」
と笑うと10錠程の薬と水をグイっと一気にのんだ。

「わし今週、兄貴の葬式に行かなあかんねん、お金ないし、着ていく服ないし親戚に会わなならんし困ってるねん。」
と困った顔をして席を立った。

「そうなんですか、辛いですね・・・。」
雄志は、辛さを共感したいと懸命に頭を働かせていた。そしてコップの水を飲み立ち上がった。

「兄ちゃん自分で洗いや」
食器を台所に持っていくと、食事をつくってくれた男性からそういわれ、洗剤をつけながらいつもより丁寧に洗った。

 紺野先生は病院でケースワーカーとして入職、病院内にデイケアを作り、利用者が働く環境をも整える実績をつくられ、退職後、作業所を立ち上げられたのであった。しばらく見学させてもらった後、夜もふけていたので、雄志はお礼をいい、作業所をあとにした。数日後、雄志はその紺野先生の創られた病院デイケアに見学に行かせてもらうことになる。

 新緑の5月、授業が午前中で終わると、雄志は、専門学校の最寄駅である泉中駅(仮称)から電車で深山駅まで行き、富士山病院(仮称)デイケアへとむかった。ここはどうやら食堂になっているようだ。ラーメンやカレー、うどんが格安で売られている。しかも具だくさんでおいしい!気持ちがいっぱい込められてているのが伝わってくる。どういう人が働いているのだろう。厨房の人、食券を扱う人、レジの人、コロッケだけを売りさばく人・・・。

 その人その人の役割がちゃんとある。そのなかで、利用者が活き活きと働いている。看護師はじめ病院の職員はこの食堂で、昼ごはんを食べていたりした。
そう思うと雄志は目からうろこが落ちた。感動した。読者の方のなかには、こう思う方もいるだろう。病気の人ばかり見て、何のためになるのか、自分自身の病気がそれで治るのか、と。雄志は別の見方をしていた。

 

 心の病を持つ人がどうすれば救われたと感じる状態になるのか。地域で普通に暮らせる環境をつくるには、どういうアプローチが必要なのか。もちろんこの時、雄志は病気を抱えていたので、同じ病気を抱える人と話すのが実は何より楽しみであった。この病気を抱える先輩方が、いきいきと働いている、なんと心強い先輩がたくさんいるのか!雄志には心躍るものがあったのだ。同じ光景でも、見る人によって見え方は全く違ってくる。そう仏典にもある。

雄志は求めていたものがここにあったと確信し、心が充分に満たされた。こういう世界を現出できる紺野先生はほんとにすごい方だ。と改めて実感した。大学で難しいことを学ぶだけでは味わえない世界を体験させてもらった。

 “なるほど、精神保健福祉士とは、このように、利用者が活き活きと働く環境をつくっていく、そういうアプローチが求められるのだな。資格を取るだけなら誰でもできるかもしれないが、紺野先生のような働きが求められるとしたら、なかなかそう簡単にはできないだろう”と雄志は思った。

 心の病を癒すためには、この資格を勉強するのはいいかもしれない。しかし、実習や地域でどの先生と出会えるかで決定的にその後の成長が違ってくるだろう。同じ資格といってもその実力の差は年数とともに歴然としてくるだろう。この資格は人生経験も相当大事になってくるのではないか。

 本当は、職務経験を数十年積んで、ソーシャルワーカーとしての技術と心を確かに持った人への記別として資格を授与するのが、自然ではないのか、そう思ったりもした。

 

 翌週、雄志は、JR岸ノ辺駅(仮称)を降り、踏み切りの音を後ろに聞きながら別の講師の先生と同期の仲間と少しさびれた商店街を歩き始めた。商店街のずっと向こうには蓮華畑が、辺り一面に広がっている。風を受けて花は少し揺らいでいる。蓮華畑が心地よく充足感でいっぱいとなっていくようだった。商店街の近くに夢見診療所があるという。学校が職場見学にと企画してくれたものだった。

 医療機関か・・・こんな所で働けたらいいなと思いながら、中に入っていくと、診療所ケースワーカーの岸本先生が煙草を吸いながら笑顔で迎えてくれた。
部屋にはぎっしりと専門書が並んでいる。さすがはプロの先生だな・・雄志はそう思った。
障害年金を受けたいと相談されたらあなたならどうしますか?」
と岸本先生(仮名)は一人の学生に問いかけた。
学生が答えにつまると、

「全部一人でやろうとするとしんどくなるんです。私ならまず知り合いの社会保険労務士さんに相談します。」

「薬のことは医者に聞けばいいし、役所や制度などは知り合いの市役所の方に聞くと早いよ。仲良くなっておいて下さいね。」

“そんなことでいいのか?”
と瞬間、疑問に思ったが、実はこれは大切なポイントである。上手に人に頼るコツを教えてくれたのだ。

 全部自分ひとりでやらないといけないと気合を入れすぎていた雄志は少し楽な気持ちになったが、自分に足りない新たな力が必要なことを納得した。それは、さまざま専門職の『人脈』である。

 雄志の苦手とすることだった。もともと机に座ってコツコツ勉強することが多く、静かで人間関係が不得手である雄志が、紺野先生や岸本先生のようなPSWを目指すというのも大変難しい目標であった。

自分が病気を治すためだけに学ぶ目的であれば充分だったかもしれないが、この先生のように人脈を活用して四方八方活躍していく姿には仰天するばかりだった。

「こういう仕事が果たして本当に私にできるのだろうか・・・」
 ハードルが高いだけに悩む所だが、一度、腹をくくって飛び込んだ世界である。卒業し、国家資格を取り、就職するという目標は断じて達成しようというのがこの時の雄志の決意であった。PSWの先生方は人間としての器も魅力もあり、話を聞くにつれ、雄志はいよいよPSWの仕事に魅かれていった。

 岸本先生の話しでは、学生時代にいろいろな関係機関を見学していくこと、そして『名刺』を渡していく大切さを知ることなどを教えてくれた。それは、先生方が、誰かいい人いないかな・・と思ったときに、名刺があればお誘いの電話ができるというのだ。

「そういうことがあるんだ・・・」
と同級生と雄志たちは、帰宅後、名刺作りに励むことになる。

~随想~第一章

病気を発症したのはもう十数年前になります。

この小説を書いたのは約7年前になります。

 

発病のそもそもの土台は、精神的には中学生ぐらいからはじまってますね。

幼少期から気が小さいうえに、当時、あるきっかけから小学生当時の過去の噂におひれがついて勝手に広がり、クラスや学校、地域まで私が、さも大悪人であるかのような噂で炎上状態になったんです。

 

私は怖すぎて何も反論できないままひたすら口をつぐんで耐え忍びました。

何度も机に頭を叩きつけながら「死にたい」と思う毎日でした。

家の外から聞こえる話声は全て私の噂をおもちゃにして大人も子供も私を蔑(さげす)み、嘲笑(ちょうしょう:あざわらう)しているかのように聞こえました。耐えがたいものがありました。

いえ、耐え切れなくなって大学留年中に爆発したのだと思います。

二十数年たった今でも残念ながら身体(精神症状・ふるえ)、心からその記憶が消えることはありません。

同窓会の案内がきましたが、誰が行きたいと思うでしょうか。

自分はいまだにそのときの傷を負っています。

一生そのトラウマを引きずって薬を飲んで生涯を送ると思います。

 

しかし、私は中学生当時、傷を負いながらも壮大な希望・夢を持っていました。

「苦労をしたから人の痛みがわかる人になる」

当時、中東情勢などもあって世界の平和が盛んに口にされることがありました。

政治の腐敗もありました。

また、ノストラダムスの大予言で人類の滅亡から救われる一節を読んで、

「自分が世界の宿命を変える一人になる」と決意しました。

(こういう発想は普通の人にはないらしいですが。)

 

その勝手な思い込みによる平和への想いを実現しようと孤軍奮闘したことがのちに自分を(病気を抱えながらも)蘇生させ、ささやかな人生の旅を楽しめるようにしてきた最大の力になります。

 

それでは引き続き、~蘇生と出会い~をお楽しみ下さい。

第一章 ~蘇生と出会い~ 1

 雄志は病気と留年のハンデを克服しようと懸命に挑戦していった。2002年4月、桜色に映える環境のなか、専門学校生活が始まった。精神保健福祉士の卵である学生が関西各地から集まってきていた。

 新しい気持ちで新しい挑戦を、新たな出会いを求めて!新しい扉は自ら開けるのだ!頑張れ新入生!と自身に言い聞かせながら、新たな友人となる学生と仲良くなろうと思った。この時、雄志はすでに26歳となっていた。この専門学校の男子の平均年齢は26歳、女子は23歳であった。

 社会人には3年程遅れての出発だが、うまくいけばまだ世間の流れに乗っていけるに違いない。まだ間に合う、これから頑張ればいくらでも挽回できる。そう思った。皆、生き生きとした目をしていたがしかし、実は皆、就職を心配していた。精神保健福祉の分野はこれからの資格だと言われたものの、就職先の確保は共通の悩みであった。ある人は作業所のボランティアから始めて職員となった人もいたし、またある人は実習先で認められてそのまま就職した人もいた。

 精神保健福祉士とは、精神障がい者を対象に社会参加を支援していく国家資格である。精神病院にはいまだ30万人を超える患者が入院しており、なかには30年近く入院している人もいる。身元引受人もおらず、やむなく入院生活を続けざるを得ないケースも多い。入院が長期化すると、“自立した生活”をする力を奪ってしまいかねない。

 そんななか、病院の生活から地域で生活できるよう、また“働きたい”との思いを応援できるよう支援していく精神保健福祉士が誕生したのだ。

 社会福祉学を学問の基盤におき、「生活者の視点」をもって、対象者の、これまで歩んできた歴史、社会的背景に目を向ける。ニーズを“個別”にとらえ、支援を始める。そして、当事者と社会との間にあるストレス等の関係性にも目を向け、社会資源を活用しながら支援を展開する。仮にその地域に利用できる社会資源(例えば居場所や働く場所)が乏しければ、自ら社会資源を立ち上げることも視野に入れ展開いくところにPSWの大きな特長をみることができるのだ。

 

 また当事者が自立した生活を送れるよう、障害年金障害者手帳ホームヘルパー等の制度を活用し、経済・生活を側面から支えていく。

 精神保健福祉士はこのように、当事者を取り巻く環境にも働きかけるソーシャルワーカーであって、部屋でカウンセリングをする臨床心理士とは違う。専門学校では、精神保健福祉士はカウンセラーではないと言われた。その違いを入学後に知った人は、卒業後に改めて心理の道に進む人もいた。精

 神保健福祉士法は1997年12月に可決成立して1999年に第1回試験が始まった。雄志が専門学校に入ったときは、まだ国家試験が始まって3回しか行っておらず、つまり過去問も3年分しかなかった。(2002年当時時)

 講師も学生も、また学校全体としてもこの新しい資格には手探りであり、なんとしても資格を取得し働こうと同級生たちは“就職口”をみつけるため、人脈づくりに励みつつ、勉強していった。講師の先生のなかには、過去問からやる方がいいと話があり、夢中で繰り返し問題を解き、先生に解説してもらう日々が続いた。

 ある日、専門学校の紺野先生(仮名)は

「この精神の病気になる人は、みな、ほんとに一生懸命で真面目に頑張ってきた人たちなんです。」
と実感を込めて講義をしてくださった。

「僕をわかってくれる人がいる!」
雄志は、心の重荷が軽くなったような気がした。そして、ふと苦い過去を思い出していた。

 雄志の学生時代はサークル活動で満たされたものもあったが、多くは孤独地獄であった。孤独から抜け出すために、懸命に頑張り、もがいてもがいて、悩んで悩み抜いた。でもいつもゴールにたどりつかない心の渇きを感じていた。

 しかし、砂漠のような荒れ果てた心に水が染み渡ってゆくように、講師の紺野先生の対人援助技術の講義は雄志の心に染み込んでいった。

 “これだ!これだ!私の探していたものはこれなんだ!見つけた!やっとたどりついた!”

 雄志は専門学校で精神科ソーシャルワーカー講師であり、西雲作業所の所長・紺野先生の講義を聞いて、この人についていけば大丈夫だ、安心だ、と心が満たされた。

 学生時代から、『人のために尽くしたい』と、心の旅を続けて、たどりついた結論がそこにはあった。ただ、雄志は自分の思いを伝えることだけに力を入れすぎて、後輩の気持ちをとらえることができなかったのだろう。

 焦りともどかしさ、力のなさに落ち込み続け、やがて自信をなくし、部屋にこもることが多くなっていったあの時を思い出していた。

やっぱり僕は相当心を病んでいたみたいだ。しかし、この精神の対人援助の実践を積み重ねて行けば、僕の心の傷も必ず癒えていくに違いない”
一筋の光明がパッと照らし出されてくるかのようであった。

「この精神の病気になる人は、みな、ほんとに一生懸命で真面目に頑張ってきた人たちなんです。」

雄志は講義を聞きながら涙の出る思いがした。

周りと比べて自分に能力がないことへの劣等感や焦り、サークル運営で真剣に悩み沈み、もがいた積み重ねがもたらした病気でもあった。

雄志は、人に尽くしたいとの気持ちが強かった。しかし、それをどんな技術で、どのようにして蓄積し、実践していくのか、ということを全く知らなかったのだ。

紺野先生は講義で語った。
「みなさんは、(精神障がいのある)メンバーさんがどう思い、どう感じているのか、なぜそう行動するのか”を考え接してください。メンバーさんは、なかなか言葉に出して自分の気持ちを表現することがうまくできないんです。また、なぜそう思ったのか、わからないときは本人さんに聞いてみてください。その言葉の背景を大事にするんです。」

雄志はこれを聞いてハッとした。これは精神疾患を有する人に対してだけではなく、子供からお年寄りまで、すべての人と接するときに必要な技法ではないかと。

「先生、実は僕も薬を飲んでいるんです・・・。」
雄志は、講義が終わると、興奮さめやらぬまま引き込まれるように、相談していった。

 

第一章 闘病編 ~急性の精神病~ 6

自宅に帰ってからは通院先が一番大事なポイントとなる。

雄志の姉の多美子は病院に勤務しており、付き合いも幅が広かった。その中で、大阪市内に山岡診療所(仮称)という有名な病院があることがわかった。

精神科で有名な先生ということで、すごい方がいるということだけはわかった。通院へは母と共に行くことになった。

 少し古いビルの2階に山岡診療所がある。年代を感じさせるビルの階段を上ると、いくつか会社が入っている。その奥に山岡診療所があった。

自動ドアのボタンを押し、中へ入ると、少し疲れた表情のする人が何人かイスに座っていた。

「ここが精神科というところか・・・僕も精神科の患者さんの一人になったのか・・早く治りたい・・・健康な体に戻りたいなあ。」

と治すことに焦っている雄志がいた。

治そうと焦れば焦るほど、空回りすることをこのときは知らなかった。人は誰でも病気にはなりたくないものだ。健康でありたいと皆願う。

ところが、思わぬところで病気になり、邪魔をされる。

その時にこそ、どう病いを受けとめるかが大事になってくる。悲観的になり、沈んでいても前へは進めない。いかなる苦難にも立ち向かい、どのような障害があっても屈しない、受け入れる。自分に負けないことが人生に最も大事なものなのかもしれないと自分に言い聞かせた。

ともあれ、三時間は待ったと記憶する。雄志の頭の中では相変わらず忙しく回転していた。噂で聞く山岡先生(仮名)から名前を呼ばれた。

「こんにちは、どうですか?」 

この、山岡先生の『どうですか?』の質問にあらゆる意味が含まれている。
深みと温かみがあり、かつ厳愛のこもった山岡先生の声に圧倒され、思わず本音がもれる。思っていることをたちまち見抜いてしまう山岡先生を前にして、雄志は頭のなかで考えてきたことをいうはずだったが、この、『どうですか?』という千金の重みある質問に瞬間、すべてを忘れてしまった。

「世界の指導者となるにはいっぱいやらないといけないことがあるんです!世界の文学も隅々まで全て暗記して、英会話もマスターして、経済も政治もなにもかも完璧に把握しないといけないんです!」

雄志はスーパーマンになろうとしていたのだろうか・・・。山岡先生は
「どれか一つだけにしよか」
とさらりと言うのであった。

「え!たったひとつですか?そ、それやったら読書かなぁ・・・」
雄志はキョトンとした表情でつぶやいた。

全部やらなきゃと思うほど何一つ身についていない。それを見抜かれた。あれもこれもと思っているだけでは前に進まない。

まず目の前にある一つのことを確実に仕上げていくことだ。

“一遍にすべてやりきる力”をつけることを目指すのではなく、一つ一つ整理して、着実に地に足つけてやっていくことが大事と、山岡先生に言われたのだ。

 

雄志は、足が宙に浮いた状態になって、頭の中だけがブンブン振りまわっている思考状態だといってよい。エンジン全開でギアがニュートラルと表現されたこともある。つまり空回りなのだ。また、退院当初

「息子は家で寝てばかりなんです。」と母は困り切って山岡先生に相談した。

「薬をみせてごらん!え!ヒルナミン100ミリ!?これだけ飲んだらぶったおれるわ!薬を半分に減らします。昼も寝ていて当然です。充分な睡眠が雄志君にいま必要なんです。お母さんご理解ください。でも大和君、意識がこちらに戻ってきてよかったね。あと一歩でどうにかなっていたよ。お母さんの祈りのおかげだよ。」
山岡先生は雄志にそう諭しつつ、ある曲を口ずさんだ。

「母よ~あなたは~なんと~ふしぎな~ゆたかな~ちからを~もっているのか・・」


山岡先生は雄志に向かい、言った。

「お母さんの祈りで、あなたはこの程度ですんだのです。お母さんに感謝しなさい」
母は目から大粒の涙をこぼした。診察室を出て会計を済ましたものの、薬待ちで一時間以上も待った。その間、雄志は一旦外に出て近くの店に入り、中華そばを母と食べた。

「雄志、チャーハンも食べて餃子も食べて、食べすぎじゃない。」母は、太ることを警戒して怪訝な顔をした。

「大丈夫だよ、病院食では随分我慢してたんだ。」
雄志はおかまいなく餃子を食べていた。

「大丈夫、運動すればいいんだから」
といいながら、いつも薬の効果で家ではぐっすり寝てしまうのであった。雄志は、診療所から帰りの電車で考えていた。雄志は今年、大学を留年して五回生となっていたのだ。あと一年で卒業しないと除籍処分となってしまう。

「あと卒業まで何単位いるのかな?37単位か!これなら何とかいけそうだ。」
そう計算すると、安心しながら外の景色を眺めていた。

「内定していた会社も病気で辞退したし、進路を早急に決めないといけない。」
不安を抱えながらもその日は、自宅に帰ってからトルストイの『戦争と平和』を読んでいたが、ソファの気持ちよさに引かれてか、薬が効いたのか、ぐっすりと夜まで眠り込んでしまった。いつも、食事の時間になると起こされ、食べるとすぐにまた寝る、の繰り返しだった。

 

いうまでもないが、怠けているのではないことを理解してほしい。薬の作用が強すぎるのだ。健常な人でも一錠飲んだだけでもフラフラになるらしい。そういう薬を何錠ものんで、ようやく脳内神経の異常な活動が、抑制されるのだ。寝たり食べたり、また寝たり。そうこうしているうちに3ヶ月が経過した。

 

 2001年春4月、大学に帰る時期が近づいた。最後の六回生だ。家族が心配するなか、雄志は実家を離れて再び関東で一人暮らしを始めた。

「いよいよ憧れの関東中央(仮称)での生活も今年で終わりなんだな、楽しい学生生活もすべて終了するんだな」
雄志は一日一日を大切に過ごそうと決めた。この一年で関東のラーメンも最後か・・・と、晩遅くに自転車でラーメン屋に通うこともあった。サークルの運営は後輩が中心となっていた。自分の時代は終わったなと感傷にふけることもしばしばであった。懐かしさで胸がいっぱいになることもあった。

就職活動もしなくてはいけないと思ったが、頭がボーッとするので履歴書に書く字がふるえてどうしてもゆがんでしまう。間違いも多いし、時間の感覚が普通の人と違って、常識からずれていくような感じがしていた。革靴を履き間違えることや物忘れが多くなるなど、不安要素いっぱいの中で無我夢中で、突っ込んでいくような気持ちで就職面接に挑んだ。下宿している関東中央から東京に出て就職活動をしたりもした。

ある会社で面接に臨んだとき、講演会の企画を学生時代に実行したことで、採用担当者をひきつけるものがあったようだが履歴書に写真を貼り忘れていることを指摘され、「これじゃだめだよ」と烙印を押され、かなり落ち込んだりもした。あれだけ注意深く履歴書を書いたのになぜ抜けているんだろう・・・と雄志は肩を落とした。雄志は際限のない不安に吸い込まれていくような心境だった。
 

そんな雄志をなぐさめてくれたのは、関東の自然豊かな景色だった。しかし、今年度でもう離れなければいけない。憧れの大地で過ごせた6年間も終わりに近づいてきた。感謝の想いが込み上げてきた。

しかし、東京での就職を望んだが就職氷河期も重なって受けた会社は面接で全滅、朝起きられず公務員試験を逃す。など、失敗を繰り返し落ち込む日々が続いた。出口の見えない、将来の見えない真っ暗な状態がしばらく続いた。大学を卒業しても何の保証もなく、このまま職歴なしの空白期間ができてしまうのか・・・。

将来に不安をかかえながらも発病から1年が経過、ある日、雄志は大学の書店で本を読んでいた。

「履歴書に空白期間は作りたくない、恥ずかしい、できるならもう一度勉強してその間に病気を治したい。」

そう思った。ボーっとした表情のまま、雄志の頭だけは再びぐるぐる回転し始めた。地方公務員を目指して再び勉強をするとして、急性の精神病となってしまった。そしてまた、精神医学に興味を持ち始めた。何か結びつく資格はないのだろうか?

 

雄志は書店で調べるうち、今までの心の体験を通じて、何か資格が取れないかと考え始めたのである。調べていくうちに、臨床心理士や福祉の分野で精神保健福祉士(PSW)という資格に偶然たどりついた。

臨床心理士は大学卒業後、さらに大学院に2年通学しないといけないが、精神保健福祉士だと大学卒業後、専門学校で1年勉強し、決められた時間、実習をすれば受験資格が得られるらしい。

「これしかない!」
と雄志は意識がもうろうとしていたが、心を定めた。

「卒業してから専門学校に行かせてほしい」
と雄志は両親にお願いした。幸い両親は雄志の気持ちを受け入れてくれた。

それから、雄志は受験のため大阪に戻り、PSW養成で有名な関西北保健福祉専門学校(仮称)の試験を受けた。“ソーシャルインクルージョンについて説明せよ”と試験問題には書かれていたが、何がなんだかさっぱりわからず、筆が進まないまま落ちてしまった。ショックだった。大学入試まではトップクラスの成績だったのに、社会で全然通用しないことに呆然としてしまったのだ。

次に関西南保健福祉専門学校(仮称)の試験を受けた。面接では志望理由を聞かれた。自分の病気を隠そうと、苦しい言い訳をしたがすぐに面接官である先生に見抜かれた。

「その状況で入院しないわけにはいかない。学校に入るのはいいとして、学校に通って逆に体調を崩さないかが心配だよ」

「大丈夫です!」
雄志は強きで言い切った。その後、学校の理事長に挨拶に部屋を訪問させてもらった。
すると、雄志を快く迎えてくれ、その上、自叙伝を揮毫して渡してくださった。

「ああ、ありがたい、私を待ってくださる人もいたのだ・・・」
2002年2月、専門学校の合格通知が届いた。
前回、試験に落ちてから、必死で勉強した甲斐があった。合格通知を見て雄志は、

「ああ、次の進路が定まった」
と心から安心することができたのである。
雄志は再び関東中央大学に戻り卒業論文作成に取り掛かった。テーマは平成の市町村合併とした。財源の問題が大きいが、手法として行政主導なのか、住民自治が先なのかという原点に帰る問いかけでしめた。

 

今から思えばもっと広い視点でかけたと痛感してならない。あの時は精一杯調べて頑張ったからそれでいいじゃないかと両親から慰められた。卒論の提出期限まであと残り2日のところを暴風雨の中を突っ切って提出しにいったことを昨日のように思い出すのであった。

そして、いよいよ卒業式を迎えるのみとなった。桜が見事に咲き薫る3月24日、両親が政治学部H棟に来てくれた。

式が終わり、外に出ると、ゼミの後輩からささやかな花束を受け取り両親と共に記念の写真に納まった。雄志は自身を成長させてくれた関東の大地に深く感謝した。学問を、そして心を磨かせてもらった。

ありがとう、関東!僕を育ててくれた第2の故郷よ!またラーメンを食べに帰ってくるよ!・・・。

荷物をまとめ、胸一杯に思い出を詰め込み、雄志は第二の故郷を後にした